光市母子殺害 残虐性を重く見た最高裁判決(2月21日付・読売社説)
犯行時、18歳になったばかりの少年に死刑を適用すべきかどうか。最高裁の最終判断は「死刑」だった。
山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審で、最高裁は殺人、強姦(ごうかん)致死罪などに問われた被告の上告を棄却する判決を言い渡した。被告の死刑が確定する。
配水管検査を装って上がり込んだアパートの一室で、23歳の主婦を絞殺した。傍らで泣きじゃくる生後11か月の女児も殺害した。
こうした被告の犯行を、判決は「冷酷、残虐、非人間的な所業」と指弾した。18歳1か月という犯行時の年齢や、更生の可能性などを考慮しても、「刑事責任は余りに重大だ」と死刑を選択した。
残虐極まりない犯行には、年齢を過度に重視せず、極刑で臨む姿勢を明確にしたと言えよう。
争点は量刑だった。未成年の健全育成や保護を主眼とする少年法は、18歳未満の少年に死刑を適用することを禁じている。
18〜19歳の「年長少年」についても、一般的に裁判官は、未成年であることを重視し、刑を軽くする傾向がある。
この事件の1、2審判決はその典型だろう。「被告に立ち直りの可能性がないとは言い難い」と判断し、無期懲役とした。
だが、最高裁は審理を広島高裁に差し戻した。被告の年齢について、「死刑を回避すべき決定的な事情とまではいえない」という理由からだった。
差し戻し審で広島高裁は死刑を言い渡し、最高裁が今回、それを支持した。厳罰により、少年の凶悪事件に歯止めをかけたいという最高裁の意向がうかがえる。
選挙権年齢の18歳への引き下げが検討課題となるなど、年長少年を「大人」と見る風潮は強まっている。社会状況の変化も、最高裁の判断の背景にはあるだろう。
殺害された主婦の夫は一貫して死刑を求めてきた。
一方、被告は、最初の上告審で死刑廃止派の弁護士らに交代して以降、「甘えたい気持ちから抱きついた」と殺意否認に転じた。
この点を差し戻し審は「うその弁解は更生の可能性を大きく減らした」と批判した。最高裁も「不合理な弁解」と断じている。弁護方針に問題はなかったろうか。
裁判員制度が導入された現在、この事件も裁判員裁判の対象となる。無期懲役と死刑の狭間(はざま)で裁判所の量刑判断も揺れるような難事件を、市民はどう裁くか。裁判員の視点で考える契機としたい。
(2012年2月21日 読売新聞)
ようやくこの裁判が終結したことに、わたくし自信も「やっとか・・・」と、内心胸をなで下ろしております。
多くの方が、この裁判に関心を寄せていたと思います。
わたくしからして、この裁判の焦点を大きく3つ。
まず1つは、やはり何と言っても、被害者であられる本村さんにお疲れ様ですと言いたい。
彼の13年間というのは、本当に長く、先の見えない道筋であったと簡単に言うに堪えない努力があっての今日でしょう。
無期懲役の判決が出、彼の無念がテレビ映像を通じて悲痛に訴える姿を何度も何度も見るたびに、司法とは何て無力なものなんだと怒りすら覚えたものです。
さらに差し戻し審になり、弁護団が結成され、死刑囚となった福田(現姓:大月)孝行の友人に宛てた卑劣極まりない文書が出てきたりと、本村さんはメディアに振り回されながらも、現実に向き合って、しっかり闘い抜いたと思います。
再婚されたと聞きました。これからは新しい人生を、共に歩んでいただき、今度こそ幸せになっていただきたいと、切に願います。
2つめは、極めて異例なことに、最高裁判員の中に反対意見があったということ。
要するに、全員一致の判決では無かったということです。
宮川光治という弁護士出身の裁判官が、死刑事件では極めて異例の反対意見を述べ、
「犯行時の精神的成熟度のレベルはどうだったか審理を尽くし、再度、量刑判断を行う必要がある」
「年齢に比べ精神的成熟度が低く幼い状態だったとうかがわれ、死刑回避の事情に該当し得る」
として審理差し戻しを求めていたというもの。
まぁ、こやつは死刑廃止論者なので、そうなることは想定の範囲内でしたが、それにしても、「犯行時の精神的成熟度レベル」とはどのようなレベルで死刑水準に達するのかとか、そういう理論を求められるのが、わたくし以上に誰もが必要としないと思うでしょう。死刑回避そのものがムチャクチャです。
まぁ、言いたいことは山ほどありますが、金築裁判官が
「少年法が死刑適用の可否について定めているのは18歳未満か以上かという形式的基準で、精神的成熟度の要件は求めていない」
という見解を示されたわけですから、改めて死刑判決が正当なものであることを結論づけました。
コレで十分。
後は我々が、次の選挙にてこの宮川光治を最高裁判官から落とすだけの話ですから。
そして3つめ。 ( 続きを読む )
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